イラクは国連の決議を無視、さらに態度を硬化させ、8月8日に「クウェート暫定自由政府が母なるイラクへの帰属を求めた」として、イラク第19番目の州であると併合を宣言した。8月10日にアラブ諸国は首脳会談を開いて共同歩調をとろうとしたが、いくつかの国がアメリカに反発してイラク寄りの姿勢を採ったので、取りあえずイラクを非難するという、まとまりのないものとなった。
8月12日にイラクは、イスラエルのパレスチナからの退去などを条件に撤退すると発表したが、到底実現可能性のあるものではなかった(なお、10月8日にエルサレムで、20人のアラブ系住民がイスラエル警官隊に射殺されるという、中東戦争以後最大の流血事件が起こり、フセインは激しく非難したが、これを機にパレスチナ問題が国際社会で大きく取り上げられるようになった)。
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さらにイラクは8月18日、一般外国人を「人間の盾」として人質にすると国際社会に発表した(のちに人質は各国からの働きかけで12月に全員解放された)。その後もイラクはクウェートの占領を継続し、国連の度重なる撤退勧告をも無視したため、11月29日に翌1991年1月15日を撤退期限とした「対イラク武力行使容認決議」を国連は決議した。
仕事
[編集] 戦争推移
「砂漠の嵐」に参加する米空軍F-16A、F-15C、F-15E
「砂漠の嵐」作戦進路
[編集] 砂漠の嵐
1月17日、多国籍軍によるイラクへの爆撃(「砂漠の嵐」作戦 operation desert storm )を開始した。この最初の攻撃はサウジアラビアから航空機およびミサイルによってイラク領内を直接たたくもので、クウェート側に軍を集中させていたイラクは出鼻をくじかれ、急遽イラク領内の防衛を固めることとなった。巡航ミサイルが活躍し、米海軍は288基のUGM/RGM-109「トマホーク」巡航ミサイルを使用、米空軍はB-52から35基のAGM-86C CALCMを発射した。CNNは空襲の様子を実況生中継して世界に報道した。1月27日に米中央軍司令官であった陸軍大将ノーマン・シュワルツコフは「絶対航空優勢」を宣言し、戦争が多国籍軍側に有利に進んでいることを強調した。
一方、フセインは「アラブ(イスラーム)対イスラエルとその支持者(ユダヤ教・キリスト教)」の構図を築こうと考え、1月18日からイスラエルへ向けスカッドミサイル「アル・フセイン」と「アル・ファジャラ」計43基を発射、イスラエル最大の都市テルアビブなどに着弾し、死傷者が出た。イスラエルは開戦直前にモサドなどによってフセインが攻撃準備をしていることを知り、1月16日に全土へ非常事態宣言を出していたが、42日間に18回39発のミサイル攻撃を受け、うち10回の攻撃で226名が負傷し、2名がミサイルの直撃で、5名がミサイル警報のショックで、7名が対化学攻撃用ガスマスク(イラン・イラク戦争時に配布したもの)の取り扱いミスで死亡した。
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イスラエル世論はイラクへの怒りで沸騰したが、アメリカや国連の要請によってイスラエル政府は動かず、フセインのもくろみは失敗した。続いてイラクはサウジアラビアとバーレーンに対して同数程度のミサイルで攻撃を行った。これは、異教徒に加担した裏切り者を制裁することで、アラブ世界の結束を図ろうという試みであったが、「不法な侵略者イラク 対 国際社会」の構図は揺らがなかった。
アメリカは急遽イスラエルや湾岸諸国にパトリオット地対空ミサイルシステムを配備して迎撃し、当時はほとんど打ち落としたと主張していた。しかし、本来これは対航空機用の兵器である。後の研究報告により、それほど役に立っていなかったことが判明した(これを受けて、米国とイスラエルはミサイル迎撃システムの開発を進めることになり、ミサイル対応のパトリオットミサイル PAC-3を開発した)。
1月29日、イラク軍はペルシャ湾上のカフジ油田を奇襲攻撃する。しかし、戦略も何もなく、また多国籍軍の抵抗にあって失敗し、翌30日に撤退した。
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[編集] 砂漠の剣
塹壕で訓練中のスタッフォードシャー連隊第1大隊C中隊(イギリス陸軍第1機甲師団)の兵士たち(1991年1月6日)一ヶ月以上に亘って行われた恒常的空爆により、イラク南部の軍事施設はほとんど破壊されてしまった。2月24日に空爆が停止される。同日、多国籍軍は地上戦(「砂漠の剣」作戦operetion desert saber)に突入。クウェートを包囲する形で、イラク領に侵攻した。大統領親衛隊や共和国防衛隊を除く一般のイラク軍は度重なる空爆によって消耗、装備も貧弱でまるで士気が無く、また一部では油田に火を放って視界を妨害しようとしたが、多国籍軍は熱線映像式暗視装置を持っていたため、煙の向こうのイラク軍部隊は攻撃もできずに一方的に撃破され、また食料も尽きたためか続々と投降した。
イラクは翌2月25日にスカッドミサイルでサウジアラビアを攻撃、ダーラン近郊の米軍兵舎に命中して28人を殺害、100人以上を負傷させた。しかし、抵抗はここまでであった。地上戦開始から100時間後にイラク軍は大量の捕虜を出しながら撤退を開始、2月27日にクウェート市を解放、多国籍軍は敗走するイラク軍を追撃した。同日中にアメリカ大統領ブッシュが停戦を発表し、サッダーム・フセインは敗戦を認めた。3月3日には暫定停戦協定が結ばれ戦争が終結した。
[編集] 停戦協定
3月3日、イラク代表が暫定休戦協定を受け入れたが、イラクが敗戦を認めたと同時に停戦したため、イラク軍の多くが温存され、この温存兵器が後の懸案事項となった(終戦直後に南部シーア派住民と北部クルド人が反フセイン暴動を起こしたが、米英が介入してこないと見たフセインは、温存した軍事力でこれらを制圧し、首謀者ら多数が殺害されたといわれる)。国連では一ヵ月後の4月3日に「クウェートへの賠償」、「大量破壊兵器(生物化学兵器)の廃棄」、「国境の尊重」、「抑留者の帰還」などを内容とする安保理決議687号が採択された。4月6日にイラクが受諾して正式に停戦合意、4月11日に687号は発効した。1995年4月に安保理が石油交易を部分的に許可する決議をしたが、イラクは全面解除以外に受け入れられないと拒否した。また、核開発防止のための国際原子力機関(IAEA)査察を拒否し、長期間にわたる経済制裁を受けることとなった。
その後の詳細はイラク武装解除問題およびイラク戦争を参照。
[編集] 損失
爆撃で破壊されたイラク軍の装甲車
炎上し黒煙を上げる重油ベトナム戦争以降、米軍は敵味方関係なく人的被害の公開を極めて恐れ、多国籍軍の死者はともかく、イラク軍の戦死者の総数ははっきりしていない。人によってまちまちだが、最も少ない見積もりでは一万人以下(戦後のイラク軍の反政府勢力鎮圧の状況を見ると、兵器の損失はともかく、人的損害はごく少ないのではないかと言う意見)、またイラン・イラク戦争においてイラク軍はイスラム諸国からの出稼ぎ労働者を徴用したこともある(ファトホル=モビーン作戦を参照)。一般的には死者が10万は超えているとされ、多いもので15万の死者が出たという。一方、多国籍軍はこの戦争で149名の死者を出し、513名が負傷した。また37名が行方不明、46名が捕虜として連行された。航空機は64機、車両は84両を失った。
この戦争以降(あるいは2年前のパナマ侵攻から)、米軍と本格的に戦闘をする国の死者をカウントするのはタブー視される雰囲気が米国にはある。敵国の死者を計算し、それについて記者会見で質問をした記者をその会見以降から締め出し、会見場の入場禁止にしたりするなど、情報統制は徹底している。このため、民間機関・市民団体が統制を破るべく独自にカウントを行い、インターネット上で発表するなどしている。また、戦闘において、多国籍軍は劣化ウラン弾を使用した。この兵器による悪影響(湾岸戦争症候群)が戦後糾弾されるようになったが、その影響について多国籍軍は否定した。
[編集] ペルシャ湾への重油流出
この戦争でペルシャ湾に大量の重油が流出し、環境が大きく損なわれたと言われている。これについてアメリカ側は「負けたイラク側が退却するために煙幕として重油を流出させた。」と主張し、海鳥が重油まみれになっている映像をたびたびテレビで配信し、世論の同情を買おうとした。一方、イラク側は「多国籍軍による空爆により重油が流出した」と主張した。しかし、この「海鳥が重油まみれになっている映像」は湾岸戦争で録られたものではなく、オイルタンカー事故のものであることが判明した。
戦後の調査で、油まみれの鳥の映像を、巨額の報酬で宣伝していたCM会社が明るみに出て問題となっている。
[編集] 米軍の戦費
アメリカ軍は、湾岸戦争に610億ドルを費やした。しかし、アメリカの自己負担は70億ドルだけで、サウジアラビアとクウェートが160億ドル、アラブ首長国連邦が40億ドル、日本が90億ドル、ドイツが70億ドルなど、大部分が他国の援助によりまかなわれたという(内訳は文献により異同がある)。
[編集] 戦後補償
国連は、イラク政府に対してイラク占領下及び戦争中におけるクウェートの被害について賠償させるために、「国連補償委員会」を設置。総額で525億ドルの賠償を求め、「石油と食料交換プログラム」に基づき、石油収益の25パーセントをクウェートへの補償に当てるとした。 フセイン政権時代は、補償金を拠出するのを渋り続けため少額しか支払われなかったが、フセイン政権崩壊後も支払いは続けられ、2007年現在、4億6960万ドルが支払われた。 しかし、32件の個別被害のうち、28件が未だに払われていない。